都市

斯く斯く然々の思いつきで書いてます。

事実と真実と真理と歴史と差別

学校を辞めた。何もかも無駄だと思えたからだ。僕は自分が納得しそうな理由をつけなければ動けない質なのだ。自分を納得させるためだったら別に後からつけるたって構わないけれども、できない場合も結構ある。僕は自分を納得させれば何をしても良いことだと思っている。思っていられるようになれる。それが悪いことだと思わないように自分を納得させるからである。例えば僕は怠け者である。とすると、いかにも悪しとされそうな意を含んでいるような感じだが怠けるのは本能であると理解すれば良いのだ。本能というものは人間が制御できない領域であるのだから仕方がないと。人間が本能を克服することはできないからだと。実際に性欲、食欲、睡眠欲と呼ばれる人間の三大欲求のことを考えてみるといい。このように浅はかでありながらもある程度理にかなうように論理立てて考えてみるとそれが分かる。別にそれが完璧であると必要はない。何故なら完璧な人間はいないから。もう一つ例を挙げよう。僕は化学が、歴史が嫌いだ。化学の理論は時代によって常に訂正されその従来事実はいつか書き換えられる。歴史も同じく新しい真実が発見され次々と改訂されて行く。しかも国によって真実は違うようである。全世界共通歴史書というものがないのは何故か。強調されるところが違う。そもそも掲載される部分も違う。そして皆各々そのように教え込まれる。一体何が真実なのか分かる術はあるのか。いや分かるはずがない。論文なんかは所詮残された昔の紙とか建物とかを研究して自分なりに論理立てて理にかなうように再構成した編集物に過ぎない。引用も欠かせないので、皆どこかある程度似たようなものに見えなくもないだろう。それが誰がどういう風に残したのか、何故その記録しか残ってないのかわからない以上それが真の真実だとは限らない。真実でありそうなもの、真実になりそうなものは多く存在するが、そこに真実そのものは一つもない可能性だってある。昔、ある人が悪意を持って故意にその歴史を改竄してしまったことも容易に考えられるし、自分の都合だけ考えて書いたにすぎないことだってあるかもしれない。(これは実際歴史の根本だ。歴史は勝者の物語だ) 勿論それも踏まえてから研究をし続けてきたとは思うが当たり前だけどそれを100パーセント完璧に区別し、真実だけを抜き取るという神技が我々にできるとは到底思えない。それが昔の情報に頼るしかない分野の研究には必ずと言っていいぐらいありうることなのだろう。だから僕はそれらを学びたいと思わないということだ。真実でないかも知れないのに何故真実として覚えなければならないのか。歴史書は事実だけを書いた物だとよく言われるが、俺には事実かも知れないものを書いてあるSFジャンル小説にすぎないと思う。(両者は根本と目的は違うが結果として同じなのだ。)僕がSF映画が好きだが歴史物語も結構好きなのはこれが原因であろう。フィクションとしては納得できるけれど事実、真実だという意見には賛成できない。という具合だ。

耐えない領土紛争の種はまさにここにあるのだと思う。これが本当に真実だとは誰も知らないし、見つけられない以上歴史はどこかの誰かも主張、意見にすぎない。もはや解釈の問題。哲学とかもそうだろう。真実が、真理がないなら、誰が、何を言ってもいいのだ。その誰かの思想と呼ばれる主張は時代を導く誰かに選ばれたものだけ生き残り、世界を支配してきた。代表的なものが天賦人権。今になってはごく当たり前の疑いようもない真理のように見えるかも知れないがその出発は誰かさんの主張から始まったことを考えてみると僕たちが今までこの世に生きながら当たり前だと考えていたことの何一つ真実ではないかという恐るべき真実を目の当たりにすることができるだろう。そして現代の歴史の覇者はまたその歴史を書き換えてそれこそが真実だと言われる世界が訪れるようになるのである。知ってしまえば、経験してしまえば、私たちはセックスがしたくてしょうがないし、美味しいものを食べなくてはいられない。だが、セックスはやったことがないと生涯自慰だけでも生きていられる。自慰すら認識したことがないのであればそれもやらなくて済むのかもしれない。しかし我々は理にかなう誰かさんの言葉を認識した瞬間に呆気なくそれに支配されてしまう。世界を自分の都合よく解釈して理解しようとしてしまう。つまり世界を自分が納得のいくように合理化しようとする試みは実は本能なのだ。気持ちいい経験をしたらそれをまた欲しがる。また美味しいものを食べたい。今まで気づいてなかったけどそういうふうに考えるとこの世界の疑問が少しは溶けた気がする。それが気持ちいい。だから差別が消えることは絶対ない。