火華

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真実を見抜く方法


 口では何とでも言える。村上春樹エルサレムで述べたように、「人は、小説家は、容易に嘘をつくことができる」
 人々は時には善なるものについて話し合い、それの必要性を訴えかけることもある。そして真実は海の遥か彼方に沈んで行く。真実は人々にとって重要なことではない。肝心なのは、「何が」真実であるかだ。だから我々は、真実について語る必要はない。それが世界の意志であり、真実であるからだ。それがシステムなのだ。
 三島由紀夫切腹自殺した。という所謂「三島事件」に一時期興味を持ったことがある。そうは言っても切腹に至るまでの一部始終に関しては全く関心を持っていない。僕が注目したのは、唯一「切腹」だけだった。
 その時買った、彼の著書の『仮面の告白』、『金閣寺』、『花盛りの森・憂国』三冊が、未だに読まれてないまま、本棚のスペースを占めている。再び手にとるタイミングを狙っていたのだが、今がその時かもしれないと、例の文章を理解した途端、そう思った。三島由紀夫についてもっと知りたいと思った。
 例の文章というのは、三島由紀夫の『雨の中の噴水』で、遠くからの噴水の眺めを「飛沫のぼかしが遠目に映らぬために、却って硝子の管の曲線のように明瞭に見えている」と描写している所である。俗にいう、優れている文章っていうのはこのようなものかもしれないと感心した。三島由紀夫はわざと難しい単語ばかり羅列している作家ではないことに、改めて思い知らされた。
 自分の信念のために死ぬ事さえできる人、その人の書く文章は「嘘」をつかない。嘘である筈がないと思わせる。我々が発する言葉、文章、行動すべてにおいて、それが真実、「嘘」でないかを見抜くことはできない。それを見抜く方法があるとするなら、「自分の信じるもののために自分の命さえ惜しまない人間」なのかにあるのではないだろうか。つまり、死をもって真実か否かを判断するしかない。
 三島由紀夫は「嘘」をつかない。だから僕は三島由紀夫が好きだ。小説家としての基本的「徳」というのは案外そこにあるのかもしれない。