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火華

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私の全てを全力で肯定します

私の全てを肯定する。

無知を誇ります。不安を誇ります

無知だからこそ得られるものがあるからです。

不安だから考えることができるのです。

 

等等

 

それはなぜか誰もが否定しているのですから

だからこそ私は肯定します。

無知から得られる知的な喜びは私を痺れさせました。

 

例えば、ソクラテスとメノンとの対話で少年への数学の問題、  正方形の倍の正方形を書きなさい

明用

私が恨んでいるのは私ではありません。その代わりに私以外の全てを恨みます。神を恨みます。両親を恨みます。今まで出会った人々を恨みます。決して自分自身には向けられないその恨みを持ち続けるのは楽とは言えませんが、宗教が必要とされるように私にそうであることが必要とされるのです。私はあくまで私で私が考えていることに関して誰も口やかましくとやかくいう権利はないはずです。だから仕方がありません。そうであるように私は産まれたのですから。率直に産まれたくはなかったのですがそれも仕方がないことです。人間はセックスが好きでたまらないのだから、繁殖し続けるようにお造りになったのですから、私の父と母はセックスをしなければなりません。わたしを孕まなければなりません。ですから自分はこうして産まれてしまいました。

 

1。

ベタな話だとは思いますが、初めて私がいじめられたのは小学校五年生の頃です。いじめのせいでこんな歪んだ人間になったんだよ。わたしのせいじゃない。とても可哀想でしょう。等の話をするつもりではありませんが、ただ思い出してしまうのです。だってこれがわたしの有りっ丈の誇りですから。

 

私は無口で口下手で、誰かから何か言われるのはあっても言葉を返すのはできませんでした。それが自分にとっては凄く苦痛でして、勿論当時は自分ばかり恨みましたので顔色は真っ白でとうとう誰も口を聞こうとしません。それはそれでいいのですが、「私は変わらなければならない」という呪いにかけられていましたから、友達を作るには自分がまず話しかけることが大事だととか、そもそも友達を作る必要があったのです。と思うばかりでしたから、こんな私が話しかけるところで喜ぶ変人はまずいないので、瞬くの間いじめられる始末になりました。それでも世間は恨めません。自分は変わりたいのですからむしろ敬畏すべき対象にと思えるのです。

死にたい

死にたいと言い始めたのは、小学校5年生からです。死にたいという人が本当に死にたくて死にたいと言うのではないように、私ももれなく死にたくないです。死にたいと言う選択肢にただただ気づいた。それだけの話です。死にたい死にたい死にたい死にたいと今迄散々呪文のように叫び続けてきた私がこうして「立派」に生きているのもその為です。

 

何で私は怯えてるいるのか、それは社会の一員になれないということを今更薄々と感じているからなのか、それとも自分の生き方に満足していないためなのか分かりません。仕方なく社会に染められなければならないのと、死にたくなくても死にたいと言わざるを得ないというのは似たようなものです。私が死ねない理由の本質はそこにあるのではないでしょうか。死にたくない。社会人になりたくない。私は本気をそう思っています。

人間関係、選択、世間、私

楽しいというものは相対的なので、人によって違ってくるものなんですが、僕は自分の行動にあれこれ考えずにただ夢中になれた時に楽しかったと感じています。その意味で一番楽しかった時期は小学校4年生までのことで、それ以来は楽しいと感じたことはありません。何がともあれ、それが私ですから今更後悔したりはしないのですが、ふと皆はどんな時楽しいと感じるのか気になります。

 

 因みに自分は二十年という自分の人生の五分の一程度しか楽しめませんでした。そしてその長年重ねられた時々が、現在の「僕」に至るまで、どのような影響を及ぼしたのかを正確には知りません。相当な割合をしめしているに違いないでしょうが。(生まれながらのDNAに入力されたデータ通りの結果に過ぎないのかもしれないが)

 

原因はともかくとして、近頃は少しづつ自分が思うままに動けるようになった気がします。まず人間関係にそこまで悩まなくなった(本当にほんの少し)ということが、何よりの証拠です。それが果たしてどの様な結果をもたらすのかは無論全く予想していません。

 

何かに欠けていると考えると、それが間違ったと考えてしまうのが自分を苦しめます。これが世間の教育ですから、いつの間しか体に染み込んでしまったのでしょう。どうすればその束縛から抜け出す事が出来るのか未だに検討もつきません。ですが、結局、逃げるのかもしれませんが、僕はこんな自分を愛し続けようと思います。それこそが世の中に対する私の唯一の抵抗です。

 

 

気取る

今日も彼女と映画を見ました。森見登美彦原作の夜は短し歩けよ乙女です。待ちに待ったとは言えないまでも、結構期待していた映画でした。なぜなら前作の(アニメ)四畳半神話体系を面白く見たと覚えていたからです。

 映画が始まりました。監督が同じなだけあってスタイルも全く同じだなーと思われます。

 そこで不思議な点が一つあります。面白いと感じたのは確かですが、なぜ面白いと感じたのか全く見当がつきません。抽象的すぎる難解な演出が終わるまで続く中、新鮮だ。と思う反面どこが新鮮だと感じたのか説明ができない自分がいます。そこで自分の知識の乏しさを感じました。あの演出はただ気取ってるだけのものではない、とおぼろげに感じるのはできましたがそれの正体が見えないのが悔しいばかりでした。

エンディングクレジットが上がりました。やっぱり凄い、面白いと感嘆の声が聞こえます。僕は素直に相槌を打てません。その瞬間、自分は心の中で、「本当にどこが面白いのか言える人いるの?」「何が凄いんだよ。」「俺は素直に分からないって言ってるんだぜ。」

その後、ふと気づくのです。「俺自身こそが気取ってるんじゃないか、」と

 

自分は自分を低く見ながらも心のどこかでどこか特別だと思い込んでたのではないでしょうか。ただ気取ってるだけなのです。

 

森見登美彦さん、ありがとうございます。

自分のレベルの底を再び知らされました。

実はとっくに知っていました。

気取ってるだけですよね。先生

K

今年は留学してから2年目なります。今は大学生になってわりと忙しく過ごしています。去年はK日本語学校を通っていました。そこで1年間勉強をして大学に入学したわけです。

今振り返ってみると、自分はあまりいい学生ではありませんでした。僕はどうも人間関係が苦手でして、何かをもらった時、その時の気持ちをうまく伝えることができないのです。ありがたく思うその気持ちだけは誰にも負けないのですが、口から出さない限りそれが伝わることはないのでしょう。その意味での話です。因みに、K日本語学校のホームページには校長ブログというものがあります。K校長先生が毎日欠かさず書いていらっしゃいます。自分が日記を書いてみようと思ったのもそこによるものです。在学中にはそれに気づいてなくて残念なくらいにいい文章だと思います。

興味ある方は是非読んで見て欲しいですね。

 

 

 

なんでもいいから

書くことに対してここまで惹かれたことはありません。無論、書くと言う行為にひかれるのか、書いている自分に憧れているのか、書き続けた結果として所謂「書ける」自分に会いたいと言うことなのかよく分かりませんが、そんなことどうでもいい、と思うこと。そしてただひたすら書き続ける。と言うことが何より大事だと気づきました。本を読むことから、書く事に。そして「書ける」と言うことを盾にして食っていけるのは極少数の人間だと言うことは言うまでもなくよく知っています。それに私は外人なんです。難しいと言う事で表現できないほどの難易度が待っているのです。ここまで来てしまった経緯はともかくとして、今日から僕は書いてみようと思います。大事だと思うことは考えることより行動として示すべきです。

頑張ります。拙い日本語ですが頑張ります。