火華

斯く斯く然々の思いつきで書いてます。

世界観

   何かをしないという理由として「したくない」と言うのはまともな答えにはならないと思う。どうしても普通の人間は、やりたくないことをやらなければならないからだ。言い換えるとやりたくないことをやらなければならない人間が普通の人間であって、やりたくないことはやらない人間が特別な人間であるからだ。すると、特別になりたい人間はやりたくないことをやらない努力をすべきで、やりたくないことをいくら頑張ってやったとしても特別になれるわけがないのではないだろうか。

   我々のやりたくないことがたまたま、世間が望む「人間像」への近道であるなら、それをやらないと言うのはある意味ではとても勇敢な行動なのかもしれない。こんな世界で、そんなDNAを持って生まれて来たということは、つまり世界が求める私ではなく純粋に私は私としてあり続けるということはそう言うことなのだろう。あくまで選択の問題であって決してどっちが上か善かの優越をつけられる問題ではない。どの道を選ぶか、本来ならばそれを自ら決めるだけでよいはずなのだ。世界はいつまでたっても不条理で満ちているだろうし、みんなが理想とする「公平」にはならないだろう。世の中ははなからそのように作られているんだ。だからこそ多様性に満ちている世界になるのだ。その残虐さを訴える人、そうでない人々。それぞれが一つになって世界を構成する。意味ない人間なんていない。物語には「葛藤」がなければ何の面白みもなくなってしまう。間違ったことは一つもない。だから人は永遠に考えなければならない。所詮正解なんてないんだから。

私を離さないで

授業でカズオ・イシグロ原作映画「私を離さないで」見て話し合った。カズオイシグロについて話し合った。登場人物について、死について、倫理について、命について話し合った。そして未来について話し合った。

  先生は近未来にはこのような科学発展を遂げることが出来て、クロン人間を作り臓器提供だけを目的として生まれてきた人間というものが実際にあり得ることだという。そこでそのような反倫理的な行為をどのように捉えればいいのかについての問いを生徒たちに投げかけた。「難しい問題だと思います。臓器を必要とする人間はいくらでもいることだし、しかし彼らを人間として捉えるならばそう簡単に決められる問題ではないと思います」「死は怖いですね。命が尽きるという経験を誰もしたことがないんですから」「臓器提供はしたくないけど、もしもらわねばならない状況に置かれたら、私はもらおうとするでしょうね」結局言ってることは皆同じだった。死にたくないという願望を伺える。

  その時だった。それらを黙って聞いていた彼女は何か思いつめた顔つきで、手を挙げた。何か言いたそうな顔で。彼女の言葉は力強く僕の心に響いた。彼女だけは違っていた。私たちとは根本的ななにかが。彼女の一言に、我々が今まで口にしていた言葉は、すでにその重さを失っていた。死についてどれだけ熱心に語ろうとも直接的に経験したことのない我々が何を感じていようがそこにどういう意味があるのだろうかと言わんばかりに彼女は言い放った。「死が何故怖いんですか。私の家族は災害で全部死にましたが、私はその時たまたま東京にいて死ななくてすみました。人間は死がいつ来るのか分からないし、避けることもできません。運命ですから。だから怖くありません」それを聞いた先生はどう反応すればいいのか、適切な言葉を探そうと必死になっているように見えた。そばかすが所々にはめられていて、いつも熟したイチゴのような先生の顔は、さらにその色合いを増していた。場は凍りついて、僕は言葉をなくし、頭をもたげることもできないまま授業が終わるまでの間自分の足元を気まずそうな表情を浮かべながら見つめ続けていた。彼女は私の言葉をどのように受け止めてくれただろうか。我々は軽々しく死について語るべきではなかったんだ。我々の死が偽物で、彼女の死だけが本物であるかのように、彼女の発した言葉は重かった。

  チャイムの音が聞こえる。家に帰る時間だ。僕は素早く帰り支度を済ませてすぐさまその場を離れた。

世界の捉え方

世界はクズとクズでないものに分けることにしよう。食べ物でいうと腐ったものと、毒を含んでいるものはクズで、そうでないのはクズではない。人間が食べることができるものはクズではない。クズでない食べ物は、多くの人間が食べたがるものであるほど、美味だと思われるほど高い値がついて、そうでないものであるほど安く手に入れて食べることができる。ものによってはクズとさして変わらない値段で取引される場合もある。逆にクズであってもクズでないものより高く売れたりするものもある。

   食べ物の値段を決めるのは味以前に需要と供給で、その需要と供給をうまく調節することができて、ある程度人為的に物の価値を作り出すこともできる。ことに近頃はミディアを利用していくらでも操作することができるので、ものの本来の価値について考えてみることも、もはや必要でなくなったのではないかと思ったりもする。本当の価値など、どうでもいいと。むしろ価値を決めるという行為があまりにも欺瞞的で、価値の判断を下すことがいかに無意味なことなのか知らされるばかりである。だからかは知らないが、いつのまにかあるものを見て感じたものへの判断を保留する習慣ができてしまった。そこで世界をクズとクズでないものにかなり極端な二分法的に思考を用いて理解しようとした。しかし何を基準に分ければいいのかと考えてみてもなかなか答えが出せないのは何故だ。ホームレスはクズなのか毒キノコはクズなのかタバコはクズなのか酒が、麻薬はクズなのか腐敗したパンはクズなのか、我々の排泄物はクズなのか、英語ができるのはクズではないのか、東大生はクズではないのか、自分の命を捧げて他人を助けた人はクズではないのか、犯罪者はクズなのか、isはクズなのか、アメリカ、日本は、中国は、韓国は、クズなのか、民間人を強姦し無惨に殺した軍人はクズなのか、ニートは、フリーターはクズなのか、高卒はクズなのか、女はくずなのか、黒人はクズなのか、白人はクズなのか、性格が悪い人はクズなのか、性格がいい人はクズではないのか、人はクズなのか、人でないのはクズではないのか、飛び降り自殺をした人はクズなのか、親を殺した人はクズなのか、学校をサボった人はクズなのか、真面目な人はクズではないのか、怠惰な人はクズなのか、聖職者はクズなのか、童貞はクズなのか、水商売の人はクズなのか、暴力団はクズなのか、ボランティアはクズではないのか、神はクズではないのか、などなどなど。まったく困ったもんだ。何をどう考えれば自分が納得が行くようになれるのか、そう簡単には答えが出なさそうだ。私はクズなのか。

事実と真実と真理と歴史と差別

学校を辞めた。何もかも無駄だと思えたからだ。僕は自分が納得しそうな理由をつけなければ動けない質なのだ。自分を納得させるためだったら別に後からつけるたって構わないけれども、できない場合も結構ある。僕は自分を納得させれば何をしても良いことだと思っている。思っていられるようになれる。それが悪いことだと思わないように自分を納得させるからである。例えば僕は怠け者である。とすると、いかにも悪しとされそうな意を含んでいるような感じだが怠けるのは本能であると理解すれば良いのだ。本能というものは人間が制御できない領域であるのだから仕方がないと。人間が本能を克服することはできないからだと。実際に性欲、食欲、睡眠欲と呼ばれる人間の三大欲求のことを考えてみるといい。このように浅はかでありながらもある程度理にかなうように論理立てて考えてみるとそれが分かる。別にそれが完璧であると必要はない。何故なら完璧な人間はいないから。もう一つ例を挙げよう。僕は化学が、歴史が嫌いだ。化学の理論は時代によって常に訂正されその従来事実はいつか書き換えられる。歴史も同じく新しい真実が発見され次々と改訂されて行く。しかも国によって真実は違うようである。全世界共通歴史書というものがないのは何故か。強調されるところが違う。そもそも掲載される部分も違う。そして皆各々そのように教え込まれる。一体何が真実なのか分かる術はあるのか。いや分かるはずがない。論文なんかは所詮残された昔の紙とか建物とかを研究して自分なりに論理立てて理にかなうように再構成した編集物に過ぎない。引用も欠かせないので、皆どこかある程度似たようなものに見えなくもないだろう。それが誰がどういう風に残したのか、何故その記録しか残ってないのかわからない以上それが真の真実だとは限らない。真実でありそうなもの、真実になりそうなものは多く存在するが、そこに真実そのものは一つもない可能性だってある。昔、ある人が悪意を持って故意にその歴史を改竄してしまったことも容易に考えられるし、自分の都合だけ考えて書いたにすぎないことだってあるかもしれない。(これは実際歴史の根本だ。歴史は勝者の物語だ) 勿論それも踏まえてから研究をし続けてきたとは思うが当たり前だけどそれを100パーセント完璧に区別し、真実だけを抜き取るという神技が我々にできるとは到底思えない。それが昔の情報に頼るしかない分野の研究には必ずと言っていいぐらいありうることなのだろう。だから僕はそれらを学びたいと思わないということだ。真実でないかも知れないのに何故真実として覚えなければならないのか。歴史書は事実だけを書いた物だとよく言われるが、俺には事実かも知れないものを書いてあるSFジャンル小説にすぎないと思う。(両者は根本と目的は違うが結果として同じなのだ。)僕がSF映画が好きだが歴史物語も結構好きなのはこれが原因であろう。フィクションとしては納得できるけれど事実、真実だという意見には賛成できない。という具合だ。

耐えない領土紛争の種はまさにここにあるのだと思う。これが本当に真実だとは誰も知らないし、見つけられない以上歴史はどこかの誰かも主張、意見にすぎない。もはや解釈の問題。哲学とかもそうだろう。真実が、真理がないなら、誰が、何を言ってもいいのだ。その誰かの思想と呼ばれる主張は時代を導く誰かに選ばれたものだけ生き残り、世界を支配してきた。代表的なものが天賦人権。今になってはごく当たり前の疑いようもない真理のように見えるかも知れないがその出発は誰かさんの主張から始まったことを考えてみると僕たちが今までこの世に生きながら当たり前だと考えていたことの何一つ真実ではないかという恐るべき真実を目の当たりにすることができるだろう。そして現代の歴史の覇者はまたその歴史を書き換えてそれこそが真実だと言われる世界が訪れるようになるのである。知ってしまえば、経験してしまえば、私たちはセックスがしたくてしょうがないし、美味しいものを食べなくてはいられない。だが、セックスはやったことがないと生涯自慰だけでも生きていられる。自慰すら認識したことがないのであればそれもやらなくて済むのかもしれない。しかし我々は理にかなう誰かさんの言葉を認識した瞬間に呆気なくそれに支配されてしまう。世界を自分の都合よく解釈して理解しようとしてしまう。つまり世界を自分が納得のいくように合理化しようとする試みは実は本能なのだ。気持ちいい経験をしたらそれをまた欲しがる。また美味しいものを食べたい。今まで気づいてなかったけどそういうふうに考えるとこの世界の疑問が少しは溶けた気がする。それが気持ちいい。だから差別が消えることは絶対ない。

無知を誇る

私の全てを肯定する。

無知を誇ります。不安を誇ります

無知だからこそ得られるものがあるからです。

不安だから考えることができるからです。

 

等等

 

それはなぜか誰もが否定していることばかりですから

だからこそ私は私を肯定します。

無知から得られる知的な喜びは私を痺れさせるのです。

 

例えば、ソクラテスとメノンとの対話に出る少年のようになるのが私の夢です。無知であるほど素直に世界を見つめられるのです。