火華

.

虫愛

バイトのある日は、大体夜11時過ぎで家に着きます。仕事は平均的に9時30分で終わりますが、その後は彼女を待たなければなりません。出勤日、退勤時間が被る上に彼女の仕事場はすぐ近くですから、別に約束をしたわけではないのですが、とにかく一緒に帰ることになっています。

そうはいっても、一時間あまりの時間を待たされのはさすがに辛くないかと思う方もいるかもしれません。僕は仕事の疲れを彼女と帰ることである程度和らげていますし、生まれながら、待つという行為を苛だたしいとか思ったことは一度もないのですから、決してそれを苦として捉えてはないのです。ただ、その間をどういう風に過ごせば為になるのかと考えたりしています。おおむね本を読んだり、音楽を聞いたり、単語を覚えたりしています。

 

正面は車が走っていて、その車道向こうのしゃれているジュエリー系お店のギリシャー風の、素材は知らないがブロンズなのか銅なのか、とにかくそのような色の像の頭(人に見える)に乗っている時計をチラチラと見ながら、

いつもと同じく彼女の仕事場の降ろされたシャッターにもたれ、文庫本を読んでいました。営業時間は9時までですから、とうに閉まっていて、残業として棚整理、補充などでもやっているのでしょう。いつも僕より、もっと大変な仕事を、もっと長い時間やっている彼女には申し訳ないばかりです。ありがとうな!

 

歩道と車道のちょうど境目ぐらいに排水口があって、僕は割とそういうものに敏感らしく、そこから登ってくるネズミやらゴキブリやらを結構な確率で目にすることがあります。ネズミは可愛いと思うですが、男という肩書きが恥ずかしくなるほど虫には弱いので、正直そうやって頻繁に顔を合わせるのは遠慮してもらいたいです。せめて、横断歩道向こうから手を振ることで妥協したらいかがかと思います。

 

昨日は二匹のゴキブリが登ってきました。出るやいなや、人混みの中で、踏まれないように必死にあっちこっち這い回っている姿は、まるで今までの自分に、似たような気がして、少し心が痛みます。親子なのでしょうか。サイズはこの距離でもパッと把握できるぐらいの違いです。その時、何故かは知りませんが妙な好奇心が湧き始めました。そのゴキブリたちを観察して見たくなったのです。ちょうど横断歩道の間隔程度離れてますから、怖くはありません。そんなことを考えるうちに、早くも親のゴキブリが踏まれたらしく、はばはひろくなって動かなくなりました。それから、息子ゴキブリも親ゴキブリの傍に座って、じっとして動かなくなりました。まるで死んだ親の悲しんで、嘆いたりするかのように。この場面ではさすがに、涙をこらえることに注意を払わない訳にはいきませんでした。そのままで10分が経って、15分近く経ったでしょうか。不思議なことにその無数の足たちが行き来する間、蹴られたり、踏まれたりすることはありませんでした。まるで息子のゴキブリの切実な思いが天にも届き、この祈りの瞬間は誰にも邪魔させないよう守られているみたいでした。実に厳かな雰囲気がゴキブリのの周りを包んでいるような気がします。それから間も無く、その力もそろそろ尽きたらしく、息子のゴキブリも蹴られ、踏まれた挙句死を迎えましたが、親に対する思いは僕に比べられないほどの厚さだったのではないかと思いました。

僕は両親を愛していません。悲しいことにおそらく、向こうは僕を愛しているはずです。もちろん推測にすぎませんが。

人間は精神というものがあって物事を思考することが出来るといいます。そして理性で本能を抑えることが出来ると言われています。だから親子の関係が片思いであることは大いにありうることです。それとは逆に、動物は思考が出来ない、或いは人間に比べてそれほど高度の思考が出来ない、本能のまま生きるなどと言われています。本当のことは、まだ誰も知らないと思いますが。なので親子の絶対的な愛の方が、逆にありうることかもしれません。(人間の愛と同じではないとは思いますが)親の立場として、子に嫌われるのは非常に辛いことだと思います。無論仕方ないことだとも思います。ただ僕が両親の悲しむという事をよく認識していてそれを感じ取ることは出来ることだと思います。もし両親、とりわけ母の場合は、人間ではない動物に生まれていたら、それについては悲しまなくて済んだのではないかと、ふと思い至っただけです。もし、僕を自分の全てを捧げてもいいほど愛していているならの話ですが、

だから僕は親になるのが怖いのです。子に嫌われるのは想像より辛いのではないかと思うからです。

だから、世の中全ての親達に感謝しています。そして尊敬しています。何が正しいのか、そういうのはさて置いてです。

 

 感謝する理由はここではいいませんが

ただ親であることに感謝しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女と僕はバイトの日が殆ど被ります。僕の方が約一時間早く終わるので彼女を待つ間にその時間分の空き時間が

褒めたいところ

自分に褒めたいところがあるとは、今まで一度も思ったことがない。それは何故か、先に言わせてもらうと、褒めたいところが「ある」「ない」とは関係なく、自分には自分を褒めたいと言う気持ちが全く湧き上がらないからだ。つまり俺を褒めたくない、あなたたちを褒めたくない。そう言うことだ。

 

それは謙遜やらあるいは高慢から来る感情ではない。そんなバカな理由ではなく、仮に褒められるべきところがあるとしたら、それはただ「そうである」に過ぎないと思っているからだ。

 

俺がなにかしかの成果を得たと言うこと。更にこれから成し遂げていくこと。もちろんあなたたちの場合でも。それは私たちが俗に言う努力なんかによって成し遂げたわけではなく、最初からそうであるべきだったと少なくとも俺は信じたいからだ。

 

こう考えると私は大した人ではない。他人に比べて優れてなんかない。あなたもそしてあなたも。俺は醜くなんかない。何かに比べて決して劣ってなんかない。あなたも、そしてあなたも。

 

私もそうでありたいから、あなたを非難したくないから。

 

褒めなければ、褒められない。褒めなければ憎まない。褒めなければ憎まれない。

 

私はそうであるべきだと心の底から思っている。

女のいない男たち

村上春樹の女のいない男たちを読み返し始めた。試験が明日だって言うのに思わず手にとってしまう。俺は本が好きじゃないし、なので読んだ本もあまりない。でも本を読もうとはしている。ただ教養人として読まなきゃいけないと思ってたこともあるが、良い文章に憧れるのもないとは言えない。最初この本を読んだときは今俺が何ページを読んでいて、いつぐらい終わるのか、何十分ぐらいたったのかなど、この本を早く終わらせて次の本を読もうとばかり考えていて、「楽しむ」という本来小説の存在意味を徹底的に無視して来た。その結果、感想として「春樹は不倫話一色だな」としか言えない始末。

彼女がなくなったらどうしようとか考えたことがあって、本棚に刺さってある「女のいない男たち」を読んでいるわけだが、前書きを読んで、これが女がいなくなった男たちの気持ちを描いた話だったってことも未だに知らなかったことに気づいた。(前書きを読んでないのか、いや、おそらく最後まで文字を目で追うだけの読み故) 前とは然違う気持ちで読んでいる。

 

金銭面においても、精神的な面においても。完璧ではないし、普通でもない俺。何一つ上手く出来ない俺でも、何のために何をすべきか少しはまともに生きられるのかなって思った。

なんちゃってwww 先ずは明日の試験だ!!

加油〜〜

 

 

 

 

 

 

快刀乱麻

縺れて、ごちゃごちゃになっている脳味噌を

快刀乱麻を断つようにぶっちぎってほしい。

出来るとしたら物の見事に、あの世に行ってしまうのが本当の皆の願いに違いない。

恥ずかしがり屋だからね。

無神経

「お前は誰にも嫌われてないよ!!俺が保証するぜ。」 圭はまるで遊園地のど真ん中で、しゃがみこんで歩こうとしない子供を慰めようとする父親のような目つきで、はぁーと息を整った後言った。あまりにも無神経な言葉遣いで、驚くばかりか呆れてしまう。「嫌われるのはまっぴらだってば。。。」朱はやすやすと無神経に口を聞いて来る圭をぶん殴りたいという衝動をなるべく抑えて、そう小さく呟くだけで我慢することにした。世の中理屈だけでは生きられないし、だから理不尽な生き方を選んだ方が何より理屈に叶うことだろうと、虚しさこそ、世界の本質ではないだろうか。いや、違う。筋肉こそ世の根本をなすものである!!! 今日も運動をサボってしまったが、明日は必ず。。。

 

 

 

名前

自分の名前の意味をどうして今迄気づいてくれなかったのか、凄く悔しい。虚弱な私は誰かに支えてもらわない限り、一方の脚を持ち上げることさえも大変な苦痛になるだけです。

 

何かに支えられたがってました。子供の頃、自分は孤独でした。居場所が欲しかったのです。怖くて耐えられないときは、布団の中で一人で泣きながら、一生叶いっこないそれらを思い描くのがそれなりの慰めにはなったものだと思います。

 

「綺麗に輝く」と両親は名前をつけてくれたのですが、本当名前だけは立派です。多分、最初はそのように育てようとしたでしょう。どこまでも勝手で、無責任です。残念ですが、僕は勝手に育ちました。あなたたちの努力の賜物ではないのです。三日坊主の性質はそこから始まったのですね。

 

上で述べたように僕は虚弱で忍耐もなかなか難しいです。だから何かを憎みます。己を咎めるのは、もううんざりです。僕が先へ進むためには、それしかないのです。誰かを憎む。そして誰かを愛する。そのためにも僕は前進せねばならないのです。

 

名前だけは立派でありがとう。

 

 

好き

私が初めてOOOしたのは、小学校4年生の頃である。男にとって一大事の経験であることを納得してくれるだろうか。それは運命にしかいいようがなく、そのきっかけは突発的に訪れる初恋のような物で、だから「早い!」と言われても困るのだ。

 「初」というものは大概がそうであるように強烈であるもの。

射精の際、胸騒ぎ。最初に思った感情は恐怖だった。まるで禁断の木の実を手に取ったアダムとイブのように。徐々に全身が震え始める。間も無く止まってから、「気持ちよかった」と一言漏らす。恐らく二度と感じることはできないだろう。喩えなど必要とせず、(むしろ邪魔なのだ)ただ気持ちがいいとしか言えない快楽そのものを、あの時、僕は初めて知った。

 

人々のOOOに至るまでの経緯を、決して一概には言えないものだから、そもそも言いたくもないわけで、言えるのは私の場合。。。

 

夏の頃だと思う。僕はベッドよりやや低めの木製の引き出しに置いてある、小型テレビに体を向けて、うたた寝をしていた。流れる音は耳を通っていて頭には何一つ入ってこない。

 

不意に下に目をやる。すると、僕はためらってしまった。いつまでも暗くて、いつまでも続いているようだ。僕が立っているここは、僕が住んでいるアパートのてっぺんではあるが、玄関の所にノコノコと布団やら、何やらを周りに注意を払いながらバリバリ抱えてきては、平然とした顔つきで、あっさりと捨てて行く人々の作られた、「あるもの」を感じ取るには充分な高さなのだ。然し、人の気配は相変わらず感じられないのである。そんなことは、さして何の影響も与えない。寂しさだけを覚えさせるこの街は、いつまでも暗いのだから。暗くて、暗くて。ただそれだけが取り柄の街である。だから僕は寂しいのだ。

 

それからこんな調子でただただ脳味噌を働かせているものの、自分を投げ捨ててしまうのは大変な勇気がいると、さらに尊敬されるべき事柄として捉え始めた。「こんなこと、ただ者では出来ないんだよな。僕だって派手に行きたいのは山々だったんだけどよ!」だからこうして「わたし」はここにいる訳で、こんな取り留めのなく長々とつまんない思い出に浸っていてはいるけれども、ただ者でないのは僕も同様。「すぐ行ってしまいたい」と言いながらも、孤独に我を差し出すことを躊躇しているのは、何故、僕は生まれてしまったのかについて考え込んでいるからであった。そして私は再び自分の世界に戻る。