都市

斯く斯く然々の思いつきで書いてます。

人間失格とは

    はしがきのある人物が三つの手記を読んでいくことで話は始まる。葉蔵の幼少期から父と兄弟たちの期待に答えるために、止むを得ずに身につけてしまった道化(獅子舞のエピソード)下男下女達の虐待から身を守るための道化、父の演説後の人間達の変わり様を目撃したことなどによると思われる世間とはやや違った価値観の形成。学校に入って、大人になってもそれは葉蔵を支配し続けてきた挙句の果てに自分は人間失格であると認識し、自殺を決意する。というのが大まかなあらすじである。


    世間とは何か。世の中では一般的に良しとされる観念がところどころに内在している。つまり正しい人間像というものが実際見えない形で存在しているということだ。例えば優しいけれど自分のためになるものをはっきりと見極めて、それを誰彼に気づかれない内に自分の懐にしまっておくことも必要だという実利的観点などがそれなのである。実際に現代の主な道徳観は優しいばかりのバカではいけない。もっと利口的で実用的な人間関係、職業が求められる、俗物的な価値観が必要とされている世界になったのである。

    一般的に、俗物と真心は、反対の概念だと認識されてきた。しかし、お金の前では自尊心も魂も良心も売り尽くした俗物がそれを他の人に告白するときに感じる感情は劣等感と恥ではなく、悲壮感と妙なプライドである。なぜなら俗物は、自分たちが現実で、この世界の真実にもっと近く触れていると思っているからである。自分たちが世界をよりよく理解していて、より多くの、より深くまで経験していると考えているのである。口減らしの崇高さとでもいうべきだろうか。まだ俗物化されていない人は、それだけの余裕があるか、世の中の経験が不足している人になってしまう。これこそが俗物の真心なのである。堀木はまさにそのような今の時代の平凡な小市民の俗物の真心を代弁するキャラクターである。すなわち、彼らに世界は正しく生きていけば、必然的に俗物になるしかないということである。必然的に、ではない。堀木が見せた家族に対する態度から伺えるように仕方なく、ではない。俗物になりたくてなったのだ。お金に魂を売りたくて売ったのである。堀木のその様な姿を直接目にするまでは読者にとって堀木はただの悪人に過ぎなかった。何か他の事情があるだろうと考えてはいたかもしれないが、いざその同情すべき背景に気がつくとショックを受けてしまう。実際お金に魂を売らなくてもいいが貧困を嫌い、娯楽を好むがために魂を売ったという事実に。

    今の時代は家族が中心ではなくなり、金のためであるなら家族さえも裏切って自分を第一に考えろという風潮が既に定着しつつあることをおぼろげながら感じずにはいられない。だが今でも尚面での世間では自分より家族、家族より世間、世界、つまり他人を重んじることが美徳だとされている反面、内での世間は上述したように他人より家族、家族より自分自身という考え方が深く根付いている。その二つの相反する道徳の乖離がもたらすジレンマを、つまり信じている道徳が根っから矛盾していることを知覚し始めると我々はどのような価値判断を下せばいいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。我々は弓の方向が自分に向けている時と、他人に向けている時とはまた相応しい道徳観が違ってくるということを理解しなければならない。自分がその道徳に反する、自分だけのためになる行為をした時と、自分と全く関係のない他人がそのような行為をした時とは持ってくる美の観点が違うのだ。自分の場合は自分自身、家族のために仕方なくやったまでの行為となる。パンを一つ盗んだだけでそれがそこまで非難されることなのかと思うし、周り(第三者)もそう同情するであろう。非難の矢を刑を原則どおり執行しようとするジャヴェールに向けるのである。つまり空気を読めと。道徳というものはこんなにも時と場合によって移り変わるものなのだと言わんばかりに、多くの読者はジャン・ヴァルジャンに味方するのである。そしてその時と場合をよく見極めて自分の都合に合わせてうまく活用することができると、世渡り上手といってまるで堀木のような生き方を、面ではタブー視してはいるが、暗黙的にはそれを奨励している雰囲気と言えば良いのだろうか。某財閥の息子の傍若無人ぶりを批判しながらも内心羨望の眼差しを送っている姿のように、我々はよしとする道徳的観念を首尾一貫することが実は未だにできていないのである。素直に生きていないのである。それなのに我々は本当に誰が見ても真理だと思われる道徳があると信じてやまない。それは大間違いではないのか。それに対して、よしとする道徳にとらわれ、自分の目指すべき道徳は何であろうかと常に熟考し、それを貫徹しようとしながら生きようとする葉蔵の人生はとてもとても美しい人生ではないか。一見絶望の塊、不幸せな人生を送ったような葉蔵の人生と、一見自己中心的で、思いやりのない冷たい人間のように見えるけれども、家族を愛し、自分より遥かに豊かな家庭で生まれたにもかかわらずダメな人生(堀木の視点で)を送っている葉蔵と付き合いながら自分の人生をよりいい人生にするための、ある意味道具として活用しきった、その結果として自分の人生をより豊かなものにして見せた堀木の人生と比べて、どちらが人間失格に相応しいか、それを見極めることが我々にできるとはとうてい思えないのである。

    葉蔵は本当に不幸せな人生を送ったのだろうか。葉蔵は自分の幼少期から大人になってもなお自分の生きるべき道を一貫している。面では自分は人間失格だとか、耐えられない出来事に出くわすとすぐさま女に、酒に、自殺に逃げてしまうような、まるでどこまでも弱い人間のように振る舞い続けたあげく女を失い、家族から捨てられ、友達から捨てられ、周りの人間、世間から捨てられる自分の姿を悪魔に例えてまで嘆いていたけれども、実際葉蔵は何も根本的な解決を見ようとする試み一つも見せてくれないわけで、途中で自分の力で漫画を書いて生活はしてみたものの長くは続けなかったのも葉蔵が果てしなく弱い人間だからではなく、そのような弱い自分にただ泥酔していたからではないだろうか。自分のかわいそうな姿、他人からかわいそうだと思われる姿、可哀想だから寄ってきてくれる女達がいて、かつそんな自分さえも利用してくれる友達もいる。酒も飲めるし、薬だってその気になったら手に入れることができる。自分の人生が堀木のような、父、兄貴たちのような世間一般の立派な人生を送ることはできなくても、自分が今まで錬磨してきた道化という才能と、自分を憐れむ気持ちが備わっている限り、他の人たちとは一味違う、特別な人生を送れるといつしか確信したのである。葉蔵は自己愛、ナルシシズムを自分自身の極めるべき能力として捉えていたのである。結核さえも葉蔵には自分のナルシシズムの完成のための都合のいい道具にすぎなかった。不治の病であった当時の結核は自分の可哀想さを一層引き立ててくれる天からの贈り物であり、酒とタバコと同様に今の自分が頼りにできるお友達のような役割を担ってくれていたのである。結核を葉蔵は恐るべき存在ではなく自分の美的観点に相応する美しい友として体内に培養していたのである。
   

    葉蔵の美学で必須不可欠なものの二つをあげるとしたら自殺と、結核であろう。死ほど現在の辛さを忘れさせることのできるものはないからだ。そのようにして葉蔵は自分自身だけの特別な人生を送ることに見事に成功したのである。それに反して堀木はまさに現代の道徳の象徴的人物で、美学など追求できる経済的余裕がなかったにもかかわらず画家として生きることを選び、その後ろ盾として葉蔵のような人間との付き合うことによってその状況を打破することができると読んでいたほどに自分の世渡り上手さをあらかじめ把握していたという恐ろしい人間であるが、自分の乞食根性、俗物根性を葉蔵の目の前に突きつけながらも少しも怯まない、むしろ堂々としている姿もこれまた美しいものだと私は感じたのである。
   

    ジャン・ヴァルジャンと堀木の俗物根性、ジャヴェールと葉蔵の首尾一貫した真心。現代の我々が求めるべき人物像は俗物なのか、真心なのか。

 

そして、人間失格とは何か。

世界観

   何かをしないという理由として「したくない」と言うのはまともな答えにはならないと思う。どうしても普通の人間は、やりたくないことをやらなければならないからだ。言い換えるとやりたくないことをやらなければならない人間が普通の人間であって、やりたくないことはやらない人間が特別な人間であるからだ。すると、特別になりたい人間はやりたくないことをやらない努力をすべきで、やりたくないことをいくら頑張ってやったとしても特別になれるわけがないのではないだろうか。

   我々のやりたくないことがたまたま、世間が望む「人間像」への近道であるなら、それをやらないと言うのはある意味ではとても勇敢な行動なのかもしれない。こんな世界で、そんなDNAを持って生まれて来たということは、つまり世界が求める私ではなく純粋に私は私としてあり続けるということはそう言うことなのだろう。あくまで選択の問題であって決してどっちが上か善かの優越をつけられる問題ではない。どの道を選ぶか、本来ならばそれを自ら決めるだけでよいはずなのだ。世界はいつまでたっても不条理で満ちているだろうし、みんなが理想とする「公平」にはならないだろう。世の中ははなからそのように作られているんだ。だからこそ多様性に満ちている世界になるのだ。その残虐さを訴える人、そうでない人々。それぞれが一つになって世界を構成する。意味ない人間なんていない。物語には「葛藤」がなければ何の面白みもなくなってしまう。間違ったことは一つもない。だから人は永遠に考えなければならない。所詮正解なんてないんだから。

私を離さないで

授業でカズオ・イシグロ原作映画「私を離さないで」見て話し合った。カズオイシグロについて話し合った。登場人物について、死について、倫理について、命について話し合った。そして未来について話し合った。

  先生は近未来にはこのような科学発展を遂げることが出来て、クロン人間を作り臓器提供だけを目的として生まれてきた人間というものが実際にあり得ることだという。そこでそのような反倫理的な行為をどのように捉えればいいのかについての問いを生徒たちに投げかけた。「難しい問題だと思います。臓器を必要とする人間はいくらでもいることだし、しかし彼らを人間として捉えるならばそう簡単に決められる問題ではないと思います」「死は怖いですね。命が尽きるという経験を誰もしたことがないんですから」「臓器提供はしたくないけど、もしもらわねばならない状況に置かれたら、私はもらおうとするでしょうね」結局言ってることは皆同じだった。死にたくないという願望を伺える。

  その時だった。それらを黙って聞いていた彼女は何か思いつめた顔つきで、手を挙げた。何か言いたそうな顔で。彼女の言葉は力強く僕の心に響いた。彼女だけは違っていた。私たちとは根本的ななにかが。彼女の一言に、我々が今まで口にしていた言葉は、すでにその重さを失っていた。死についてどれだけ熱心に語ろうとも直接的に経験したことのない我々が何を感じていようがそこにどういう意味があるのだろうかと言わんばかりに彼女は言い放った。「死が何故怖いんですか。私の家族は災害で全部死にましたが、私はその時たまたま東京にいて死ななくてすみました。人間は死がいつ来るのか分からないし、避けることもできません。運命ですから。だから怖くありません」それを聞いた先生はどう反応すればいいのか、適切な言葉を探そうと必死になっているように見えた。そばかすが所々にはめられていて、いつも熟したイチゴのような先生の顔は、さらにその色合いを増していた。場は凍りついて、僕は言葉をなくし、頭をもたげることもできないまま授業が終わるまでの間自分の足元を気まずそうな表情を浮かべながら見つめ続けていた。彼女は私の言葉をどのように受け止めてくれただろうか。我々は軽々しく死について語るべきではなかったんだ。我々の死が偽物で、彼女の死だけが本物であるかのように、彼女の発した言葉は重かった。

  チャイムの音が聞こえる。家に帰る時間だ。僕は素早く帰り支度を済ませてすぐさまその場を離れた。

世界の捉え方

世界はクズとクズでないものに分けることにしよう。食べ物でいうと腐ったものと、毒を含んでいるものはクズで、そうでないのはクズではない。人間が食べることができるものはクズではない。クズでない食べ物は、多くの人間が食べたがるものであるほど、美味だと思われるほど高い値がついて、そうでないものであるほど安く手に入れて食べることができる。ものによってはクズとさして変わらない値段で取引される場合もある。逆にクズであってもクズでないものより高く売れたりするものもある。

   食べ物の値段を決めるのは味以前に需要と供給で、その需要と供給をうまく調節することができて、ある程度人為的に物の価値を作り出すこともできる。ことに近頃はミディアを利用していくらでも操作することができるので、ものの本来の価値について考えてみることも、もはや必要でなくなったのではないかと思ったりもする。本当の価値など、どうでもいいと。むしろ価値を決めるという行為があまりにも欺瞞的で、価値の判断を下すことがいかに無意味なことなのか知らされるばかりである。だからかは知らないが、いつのまにかあるものを見て感じたものへの判断を保留する習慣ができてしまった。そこで世界をクズとクズでないものにかなり極端な二分法的に思考を用いて理解しようとした。しかし何を基準に分ければいいのかと考えてみてもなかなか答えが出せないのは何故だ。ホームレスはクズなのか毒キノコはクズなのかタバコはクズなのか酒が、麻薬はクズなのか腐敗したパンはクズなのか、我々の排泄物はクズなのか、英語ができるのはクズではないのか、東大生はクズではないのか、自分の命を捧げて他人を助けた人はクズではないのか、犯罪者はクズなのか、isはクズなのか、アメリカ、日本は、中国は、韓国は、クズなのか、民間人を強姦し無惨に殺した軍人はクズなのか、ニートは、フリーターはクズなのか、高卒はクズなのか、女はくずなのか、黒人はクズなのか、白人はクズなのか、性格が悪い人はクズなのか、性格がいい人はクズではないのか、人はクズなのか、人でないのはクズではないのか、飛び降り自殺をした人はクズなのか、親を殺した人はクズなのか、学校をサボった人はクズなのか、真面目な人はクズではないのか、怠惰な人はクズなのか、聖職者はクズなのか、童貞はクズなのか、水商売の人はクズなのか、暴力団はクズなのか、ボランティアはクズではないのか、神はクズではないのか、などなどなど。まったく困ったもんだ。何をどう考えれば自分が納得が行くようになれるのか、そう簡単には答えが出なさそうだ。私はクズなのか。

事実と真実と真理と歴史と差別

学校を辞めた。何もかも無駄だと思えたからだ。僕は自分が納得しそうな理由をつけなければ動けない質なのだ。自分を納得させるためだったら別に後からつけるたって構わないけれども、できない場合も結構ある。僕は自分を納得させれば何をしても良いことだと思っている。思っていられるようになれる。それが悪いことだと思わないように自分を納得させるからである。例えば僕は怠け者である。とすると、いかにも悪しとされそうな意を含んでいるような感じだが怠けるのは本能であると理解すれば良いのだ。本能というものは人間が制御できない領域であるのだから仕方がないと。人間が本能を克服することはできないからだと。実際に性欲、食欲、睡眠欲と呼ばれる人間の三大欲求のことを考えてみるといい。このように浅はかでありながらもある程度理にかなうように論理立てて考えてみるとそれが分かる。別にそれが完璧であると必要はない。何故なら完璧な人間はいないから。もう一つ例を挙げよう。僕は化学が、歴史が嫌いだ。化学の理論は時代によって常に訂正されその従来事実はいつか書き換えられる。歴史も同じく新しい真実が発見され次々と改訂されて行く。しかも国によって真実は違うようである。全世界共通歴史書というものがないのは何故か。強調されるところが違う。そもそも掲載される部分も違う。そして皆各々そのように教え込まれる。一体何が真実なのか分かる術はあるのか。いや分かるはずがない。論文なんかは所詮残された昔の紙とか建物とかを研究して自分なりに論理立てて理にかなうように再構成した編集物に過ぎない。引用も欠かせないので、皆どこかある程度似たようなものに見えなくもないだろう。それが誰がどういう風に残したのか、何故その記録しか残ってないのかわからない以上それが真の真実だとは限らない。真実でありそうなもの、真実になりそうなものは多く存在するが、そこに真実そのものは一つもない可能性だってある。昔、ある人が悪意を持って故意にその歴史を改竄してしまったことも容易に考えられるし、自分の都合だけ考えて書いたにすぎないことだってあるかもしれない。(これは実際歴史の根本だ。歴史は勝者の物語だ) 勿論それも踏まえてから研究をし続けてきたとは思うが当たり前だけどそれを100パーセント完璧に区別し、真実だけを抜き取るという神技が我々にできるとは到底思えない。それが昔の情報に頼るしかない分野の研究には必ずと言っていいぐらいありうることなのだろう。だから僕はそれらを学びたいと思わないということだ。真実でないかも知れないのに何故真実として覚えなければならないのか。歴史書は事実だけを書いた物だとよく言われるが、俺には事実かも知れないものを書いてあるSFジャンル小説にすぎないと思う。(両者は根本と目的は違うが結果として同じなのだ。)僕がSF映画が好きだが歴史物語も結構好きなのはこれが原因であろう。フィクションとしては納得できるけれど事実、真実だという意見には賛成できない。という具合だ。

耐えない領土紛争の種はまさにここにあるのだと思う。これが本当に真実だとは誰も知らないし、見つけられない以上歴史はどこかの誰かも主張、意見にすぎない。もはや解釈の問題。哲学とかもそうだろう。真実が、真理がないなら、誰が、何を言ってもいいのだ。その誰かの思想と呼ばれる主張は時代を導く誰かに選ばれたものだけ生き残り、世界を支配してきた。代表的なものが天賦人権。今になってはごく当たり前の疑いようもない真理のように見えるかも知れないがその出発は誰かさんの主張から始まったことを考えてみると僕たちが今までこの世に生きながら当たり前だと考えていたことの何一つ真実ではないかという恐るべき真実を目の当たりにすることができるだろう。そして現代の歴史の覇者はまたその歴史を書き換えてそれこそが真実だと言われる世界が訪れるようになるのである。知ってしまえば、経験してしまえば、私たちはセックスがしたくてしょうがないし、美味しいものを食べなくてはいられない。だが、セックスはやったことがないと生涯自慰だけでも生きていられる。自慰すら認識したことがないのであればそれもやらなくて済むのかもしれない。しかし我々は理にかなう誰かさんの言葉を認識した瞬間に呆気なくそれに支配されてしまう。世界を自分の都合よく解釈して理解しようとしてしまう。つまり世界を自分が納得のいくように合理化しようとする試みは実は本能なのだ。気持ちいい経験をしたらそれをまた欲しがる。また美味しいものを食べたい。今まで気づいてなかったけどそういうふうに考えるとこの世界の疑問が少しは溶けた気がする。それが気持ちいい。だから差別が消えることは絶対ない。

無知を誇る

私の全てを肯定する。

無知を誇ります。不安を誇ります

無知だからこそ得られるものがあるからです。

不安だから考えることができるからです。

 

等等

 

それはなぜか誰もが否定していることばかりですから

だからこそ私は私を肯定します。

無知から得られる知的な喜びは私を痺れさせるのです。

 

例えば、ソクラテスとメノンとの対話に出る少年のようになるのが私の夢です。無知であるほど素直に世界を見つめられるのです。