火華

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芸術とは

良い文章について、考えたことがあります。
何故なら、出来るとしたら、私は密かに、小説家になりたいと思っているからです。

私は小説家になるに当たってこの上なく肝心なのが「感性」だと思っていました。目に見えない変化を敏感に読み取ること、それを自分の中で繰り返し噛み締め、隠れている真実をおびき出そうとする理想主義者になりきることが、小説家への第一歩だと思いました。そして、それらはたまたま私に備わっていて、自分の才能を生かすべきだという妥当な結論を見出したのです。将来はそういうやり方で「決める」ことだと思っています。

真実を見抜く方法


 口では何とでも言える。村上春樹エルサレムで述べたように、「人は、小説家は、容易に嘘をつくことができる」
 人々は時には善なるものについて話し合い、それの必要性を訴えかけることもある。そして真実は海の遥か彼方に沈んで行く。真実は人々にとって重要なことではない。肝心なのは、「何が」真実であるかだ。だから我々は、真実について語る必要はない。それが世界の意志であり、真実であるからだ。それがシステムなのだ。
 三島由紀夫切腹自殺した。という所謂「三島事件」に一時期興味を持ったことがある。そうは言っても切腹に至るまでの一部始終に関しては全く関心を持っていない。僕が注目したのは、唯一「切腹」だけだった。
 その時買った、彼の著書の『仮面の告白』、『金閣寺』、『花盛りの森・憂国』三冊が、未だに読まれてないまま、本棚のスペースを占めている。再び手にとるタイミングを狙っていたのだが、今がその時かもしれないと、例の文章を理解した途端、そう思った。三島由紀夫についてもっと知りたいと思った。
 例の文章というのは、三島由紀夫の『雨の中の噴水』で、遠くからの噴水の眺めを「飛沫のぼかしが遠目に映らぬために、却って硝子の管の曲線のように明瞭に見えている」と描写している所である。俗にいう、優れている文章っていうのはこのようなものかもしれないと感心した。三島由紀夫はわざと難しい単語ばかり羅列している作家ではないことに、改めて思い知らされた。
 自分の信念のために死ぬ事さえできる人、その人の書く文章は「嘘」をつかない。嘘である筈がないと思わせる。我々が発する言葉、文章、行動すべてにおいて、それが真実、「嘘」でないかを見抜くことはできない。それを見抜く方法があるとするなら、「自分の信じるもののために自分の命さえ惜しまない人間」なのかにあるのではないだろうか。つまり、死をもって真実か否かを判断するしかない。
 三島由紀夫は「嘘」をつかない。だから僕は三島由紀夫が好きだ。小説家としての基本的「徳」というのは案外そこにあるのかもしれない。

 

虫愛

バイトのある日は、大体夜11時過ぎで家に着きます。仕事は平均的に9時30分で終わりますが、その後は彼女を待たなければなりません。出勤日、退勤時間が被る上に彼女の仕事場はすぐ近くですから、別に約束をしたわけではないのですが、とにかく一緒に帰ることになっています。

そうはいっても、一時間あまりの時間を待たされのはさすがに辛くないかと思う方もいるかもしれません。僕は仕事の疲れを彼女と帰ることである程度和らげていますし、生まれながら、待つという行為を苛だたしいとか思ったことは一度もないのですから、決してそれを苦として捉えてはないのです。ただ、その間をどういう風に過ごせば為になるのかと考えたりしています。おおむね本を読んだり、音楽を聞いたり、単語を覚えたりしています。

 

正面は車が走っていて、その車道向こうのしゃれているジュエリー系お店のギリシャー風の、素材は知らないがブロンズなのか銅なのか、とにかくそのような色の像の頭(人に見える)に乗っている時計をチラチラと見ながら、

いつもと同じく彼女の仕事場の降ろされたシャッターにもたれ、文庫本を読んでいました。営業時間は9時までですから、とうに閉まっていて、残業として棚整理、補充などでもやっているのでしょう。いつも僕より、もっと大変な仕事を、もっと長い時間やっている彼女には申し訳ないばかりです。ありがとうな!

 

歩道と車道のちょうど境目ぐらいに排水口があって、僕は割とそういうものに敏感らしく、そこから登ってくるネズミやらゴキブリやらを結構な確率で目にすることがあります。ネズミは可愛いと思うですが、男という肩書きが恥ずかしくなるほど虫には弱いので、正直そうやって頻繁に顔を合わせるのは遠慮してもらいたいです。せめて、横断歩道向こうから手を振ることで妥協したらいかがかと思います。

 

昨日は二匹のゴキブリが登ってきました。出るやいなや、人混みの中で、踏まれないように必死にあっちこっち這い回っている姿は、まるで今までの自分に、似たような気がして、少し心が痛みます。親子なのでしょうか。サイズはこの距離でもパッと把握できるぐらいの違いです。その時、何故かは知りませんが妙な好奇心が湧き始めました。そのゴキブリたちを観察して見たくなったのです。ちょうど横断歩道の間隔程度離れてますから、怖くはありません。そんなことを考えるうちに、早くも親のゴキブリが踏まれたらしく、はばはひろくなって動かなくなりました。それから、息子ゴキブリも親ゴキブリの傍に座って、じっとして動かなくなりました。まるで死んだ親の悲しんで、嘆いたりするかのように。この場面ではさすがに、涙をこらえることに注意を払わない訳にはいきませんでした。そのままで10分が経って、15分近く経ったでしょうか。不思議なことにその無数の足たちが行き来する間、蹴られたり、踏まれたりすることはありませんでした。まるで息子のゴキブリの切実な思いが天にも届き、この祈りの瞬間は誰にも邪魔させないよう守られているみたいでした。実に厳かな雰囲気がゴキブリのの周りを包んでいるような気がします。それから間も無く、その力もそろそろ尽きたらしく、息子のゴキブリも蹴られ、踏まれた挙句死を迎えましたが、親に対する思いは僕に比べられないほどの厚さだったのではないかと思いました。

僕は両親を愛していません。悲しいことにおそらく、向こうは僕を愛しているはずです。もちろん推測にすぎませんが。

人間は精神というものがあって物事を思考することが出来るといいます。そして理性で本能を抑えることが出来ると言われています。だから親子の関係が片思いであることは大いにありうることです。それとは逆に、動物は思考が出来ない、或いは人間に比べてそれほど高度の思考が出来ない、本能のまま生きるなどと言われています。本当のことは、まだ誰も知らないと思いますが。なので親子の絶対的な愛の方が、逆にありうることかもしれません。(人間の愛と同じではないとは思いますが)親の立場として、子に嫌われるのは非常に辛いことだと思います。無論仕方ないことだとも思います。ただ僕が両親の悲しむという事をよく認識していてそれを感じ取ることは出来ることだと思います。もし両親、とりわけ母の場合は、人間ではない動物に生まれていたら、それについては悲しまなくて済んだのではないかと、ふと思い至っただけです。もし、僕を自分の全てを捧げてもいいほど愛していているならの話ですが、

だから僕は親になるのが怖いのです。子に嫌われるのは想像より辛いのではないかと思うからです。

だから、世の中全ての親達に感謝しています。そして尊敬しています。何が正しいのか、そういうのはさて置いてです。

 

 感謝する理由はここではいいませんが

ただ親であることに感謝しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女と僕はバイトの日が殆ど被ります。僕の方が約一時間早く終わるので彼女を待つ間にその時間分の空き時間が

褒めたいところ

自分に褒めたいところがあるとは、今まで一度も思ったことがない。それは何故か、先に言わせてもらうと、褒めたいところが「ある」「ない」とは関係なく、自分には自分を褒めたいと言う気持ちが全く湧き上がらないからだ。つまり俺を褒めたくない、あなたたちを褒めたくない。そう言うことだ。

 

それは謙遜やらあるいは高慢から来る感情ではない。そんなバカな理由ではなく、仮に褒められるべきところがあるとしたら、それはただ「そうである」に過ぎないと思っているからだ。

 

俺がなにかしかの成果を得たと言うこと。更にこれから成し遂げていくこと。もちろんあなたたちの場合でも。それは私たちが俗に言う努力なんかによって成し遂げたわけではなく、最初からそうであるべきだったと少なくとも俺は信じたいからだ。

 

こう考えると私は大した人ではない。他人に比べて優れてなんかない。あなたもそしてあなたも。俺は醜くなんかない。何かに比べて決して劣ってなんかない。あなたも、そしてあなたも。

 

私もそうでありたいから、あなたを非難したくないから。

 

褒めなければ、褒められない。褒めなければ憎まない。褒めなければ憎まれない。

 

私はそうであるべきだと心の底から思っている。

女のいない男たち

村上春樹の女のいない男たちを読み返し始めた。試験が明日だって言うのに思わず手にとってしまう。俺は本が好きじゃないし、なので読んだ本もあまりない。でも本を読もうとはしている。ただ教養人として読まなきゃいけないと思ってたこともあるが、良い文章に憧れるのもないとは言えない。最初この本を読んだときは今俺が何ページを読んでいて、いつぐらい終わるのか、何十分ぐらいたったのかなど、この本を早く終わらせて次の本を読もうとばかり考えていて、「楽しむ」という本来小説の存在意味を徹底的に無視して来た。その結果、感想として「春樹は不倫話一色だな」としか言えない始末。

彼女がなくなったらどうしようとか考えたことがあって、本棚に刺さってある「女のいない男たち」を読んでいるわけだが、前書きを読んで、これが女がいなくなった男たちの気持ちを描いた話だったってことも未だに知らなかったことに気づいた。(前書きを読んでないのか、いや、おそらく最後まで文字を目で追うだけの読み故) 前とは然違う気持ちで読んでいる。

 

金銭面においても、精神的な面においても。完璧ではないし、普通でもない俺。何一つ上手く出来ない俺でも、何のために何をすべきか少しはまともに生きられるのかなって思った。

なんちゃってwww 先ずは明日の試験だ!!

加油〜〜

 

 

 

 

 

 

快刀乱麻

縺れて、ごちゃごちゃになっている脳味噌を

快刀乱麻を断つようにぶっちぎってほしい。

出来るとしたら物の見事に、あの世に行ってしまうのが本当の皆の願いに違いない。

恥ずかしがり屋だからね。

無神経

「お前は誰にも嫌われてないよ!!俺が保証するぜ。」 圭はまるで遊園地のど真ん中で、しゃがみこんで歩こうとしない子供を慰めようとする父親のような目つきで、はぁーと息を整った後言った。あまりにも無神経な言葉遣いで、驚くばかりか呆れてしまう。「嫌われるのはまっぴらだってば。。。」朱はやすやすと無神経に口を聞いて来る圭をぶん殴りたいという衝動をなるべく抑えて、そう小さく呟くだけで我慢することにした。世の中理屈だけでは生きられないし、だから理不尽な生き方を選んだ方が何より理屈に叶うことだろうと、虚しさこそ、世界の本質ではないだろうか。いや、違う。筋肉こそ世の根本をなすものである!!! 今日も運動をサボってしまったが、明日は必ず。。。